決死の空費

 2017年がもうすぐ終わってしまう。振り返ってみれば何も無いようで実際何も無かった。特別に書きたいことがある訳ではないけれども大学の課題が終わる気配を見せないので現実逃避にブログを書き記している。正直普通にブログを書いている場合では無いのだが、人間は時に自分でも理解しがたいような不可思議な行動に出てしまう愉快な生物なので赦してほしい。

 

 自分は課題を早めに終わらせたい時、集中力を高めるためにエナジードリンクだとかコーヒーだとかを飲むのだが今まで一度もその効能を得られたことがない。エナジードリンクを飲んで目がギンッギンになって頭が冴えても指が勝手にiPhoneを触っているし、コーヒー飲んでも結局指が勝手にパソコンを触っていたりする。しかも腹の耐久性が低すぎてカフェインを摂取すると毎回漏れなく漏れそうになってしまう(ポエマー)から厄介極まりない。そういう時はなんやかんやで深夜2時ぐらいに寝るのだが翌日ありえないぐらいの眠さと倦怠感に襲われてしまう。そして二度とカフェインは摂取しないと誓うのだがやっぱり時間を置くとコーヒーを買ってしまう。ブラックガムなんかを噛めばいいんじゃないかって思ってやってみたりもしたが何故か噛んでるだけなのに腹が痛くなるという不慮の事故が起きてしまったので断念した。

 

 現に今もコーヒーを飲んで眠気を覚ましつつ課題をやる算段でこの文章を書いている訳だがどう考えてもこの文章にそれほどの時間を費やす価値はないしなんなら読む価値も無い、なんで自分がこんなことを書いているのか目的もわからない始末なので「暇すぎるし土偶作ろうかな」とか考えてるレベルで暇な人だけ読んでくれればいいと思う。

 

 この一年、振り返ってみれば実に無味乾燥なものだった。大学三回生というともう立派な大人だと見られてもいい年頃だが、未だに思考の内容が高校二年生ぐらいから進歩していない気がする。昔は「大学生になればそれなりに成長しているだろう」と高を括っていたが全然そんなことはなく、安西先生も「まるで成長していない…」と憔悴する程には何も変わらなかった(スラムダンク22巻参照)。忘年会などでもし「今年何か面白いことあったか?」みたいな話を振られても「いや…特に………照」とか返してしまうだろう。でもそれでは流石につまらないので今年あった面白いことを極力想起してみようと思う。面白いことと言っても自分が面白いと感じたことであって面白いの定義は人それぞれなので絶対に面白いという保証は無いんだけれどもうんまああのその、こういうこと前置きする人間は大抵面白くないんで書きたくないんだけどもう書いちゃったしバックスペース押して消すのもなんか勿体無いというかめんどくさいのでまあとりあえずですねえ、

 

 まず直近で思い出せるのが、大学で授業受けてた時に前に座ってた女子大生の後ろ髪が美人な雰囲気出てて授業中その女子大生に気を取られて後ろ髪ばっか見てたんだけど授業の最後に「コメントペーパー配りま~す」って教授に言われてその女子大生が自分に紙渡すために振り向いたら想像以上に強欲な壺顔で脳内で思いっきり「いや藤田ニコルやないかい!」とツッコんでしまったこと。面白かったことというか意表を突かれただけだ。

 次に迷惑メールの内容が「安室奈美恵のライブに当選しました!」だったこと。

 あとは油そば食べに行った時に「にんにくどうしますか?」って聞かれたから家に帰った時のことを配慮して「かなり少なめで」っつって食べて家帰ったら親に「くっっっっっさ!!ちょっとニンニクの匂い強すぎるんだけど!」って一時間ぐらい説教されて家中に消臭剤撒かれたこと(面白くはない)。

 電車で高齢者が乗ってきたから若者が席を譲ろうとしたけどその空いた席にオタクみたいな風貌したデブがスライドインして座って若者も高齢者も微妙な表情になり車内に変な空気が流れたこともあった。

 下半期になってからは本を読んだり映画を観たりすることが多かったのであまり特筆すべきことがないのだが、強いて言うならアウトレイジ観に行ったら観客がほとんどアウトレイジに出てきそうな強面のオッサンばっかで隣の席から銃殺されんじゃないかと危惧しながら観てたこととか、Fateの映画観に行ったら本当にオタクみたいな人間ばっかで席埋まってて映画始まる前の予告の時間ずっと携帯横にしてFGOやってるし一種の固有結界張られてんだろコレと思いながら観たことぐらいだ。

 そんなこんなで別に2017年は大したことも起きなく終わりそうだ。結局面白いと形容するにはあまりにもインパクトに欠ける事例しか捻出出来なかったが赦してほしい。

 

 今年のスケジュール帳を見返したら冬に行われた部活の合宿が嫌すぎて合宿の日程に「インフル」って書き込んであった。精神は衰弱してても身体は無駄に健常だったので普通に行ったけど来年も合宿の欄に「インフル」って書くと思う。

ということで課題やります。

 

 See you again

 

 

 

 

 

装飾系人間の憂鬱

 この間興味深いタイトルの本を読んだので感想を記そうと思う。竹内一郎の『人は見た目が9割』という本である。最初目にしたときは「なんやこのタイトルゥ!?ナメとんのか!」と激昂しかけたが、本書は人間としての容姿がその人の人生の優劣を決定付けるという類の内容ではなく、「バーバル・コミュニケーション(言葉による伝達)」より「ノンバーバル・コミュニケーション(非言語的な伝達)」の方が伝達力が高い、ということを実例に伴って提示したものである。

 

 私がこの本を読んで印象的だったのは髭についての話である。自分に自信がない男性ほど、威圧のサインとして髭を生やしたがるというものだ。確かに街中を歩いていても髭を生やす必要もないような童顔の男性が髭を生やしている光景をよく見かける。これは自分の童顔というコンプレックスを髭というアイテムで隠蔽し、仮初めの充足感を得ているということなのだろう。しかしこれでは暗に「自分は髭を生やさなければ威厳を保てないような人間だ」と自白してしまっているようなものではないか。髭の他にも、ファッション感覚でマスクを着用している人が多々存在する。病を患っていないのにマスクをつけている大多数の人間は顔の下半分を隠匿するという目的があって着用しているのだと推測されるが、やはりこのケースも「マスクをしなければ自信を持って顔面を白日の下に晒せない」という一種の自己保身的な姿勢が見え隠れしていると考えられる。個人的にはマスクを外した時とそうでない時の落差の幅が大きければ大きいほど見る側の衝撃も大きいものになるので、最初からマスクで着飾らずに生活すると言うのが最適解のように思う。

 

 また、とりわけ興味を惹いたのは、人間が伝達する情報の中で話す言葉の内容そのものが占める比率は7%に過ぎないということである。残りの93%は、発話者の表情や声、話すテンポ、態度などに影響されるという。たとえば就活の面接において、全く同じ内容の問答をしたとしても、態度が良く好印象を与えられる人と態度が悪く悪印象を持たれてしまう人がいる。言葉の内容以外の面での情報に僅かでも差異が生じると、そこにはもう人間個人としての差異が発生する訳である。人間は無意識的に視覚的な情報で人を判断してしまう癖を持つ生き物である。そういうようにプログラミングされているらしい(諸説あり)。言葉の内容だけに焦点を当ててその人の人となりを推し量るのは至極困難である。

 

 元来、日本人は非言語的なノンバーバル・コミュニケーションが主流であったという。それは古来日本人が基本言語を必要としない農耕文化に生きていたからだというのである。それ故に日本ではノンバーバル・コミュニケーションが発達し、「お互い語らずに察し合う」という観念が形成された。これに対しヨーロッパ諸国では、古来より人と関わる商業が盛んだったため、「相手に自分の意を理解させる」という考え方が主流であった。端的に言えば、ヨーロッパは日本に比べて謙虚性が欠如しており、日本はヨーロッパに比べて自己主張性が劣っていたということである。ジャパニーズがシャイだなんだと言われる起源もここにあるように思う。

 

 無論、何を話すかという内容の取捨選択も重要ではあるのだが、言語外の視覚的要素でかなり印象が変化するというのも事実であるということがわかった。

 

 という非常に月並みな感想でした、おしまい。

 

 See you again